島コラム vol.4:はまゆう丸を知っていますか
東京都立広尾病院 内視鏡センター長 小山茂
2000年の三宅島噴火は9月上旬に全島避難の後、残っていた防災関係者も同月半ばに島を離れ、完全無人状態になりました。
災害対策本部は当初客船をホテルシップとして沿岸に停泊させ、火山観測やインフラ維持などの作業に当たりましたが、台風が多くうねりが激しくなり洋上対応が困難になりました。そこで翌10月に島の北西に位置する神津島に本部が移転し、工事関係者が船で三宅島へ日帰りで通い復旧に努めました。はじめは漁船でしたが、輸送力強化のため翌2001年1月より三宅・御蔵島間の定期船「えびね丸」(定員60人)が、さらに3月から「はまゆう丸」(882トン、定員285人)が加わりました。これで作業が軌道に乗り、ピーク時には月当りのべ5000人以上が島間を行き来しました。
この時期神津島で夕方はまゆう丸が戻ってくる度、負傷者に対応した記憶があります。三宅島の診療所も常駐診療が再開されていましたが、復旧途上でした。
日帰りで40㎞離れた島を往復しながらの作業は大変そうでした。手当てを受け、明日も頑張るぞと民宿へ戻る方もいれば、あいにく骨折等で就労困難の診断書を手渡す事例もありました。
三宅島では2001年7月、脱硫装置つき宿舎が完成し、日帰り帰宅が認められました。同月に天皇皇后両陛下(現在の上皇上皇后両陛下)は噴火前の群発地震で被害を受けた新島・神津島を行幸啓されました。
幾すじも 崩落のあと 白く見ゆ はげしき地震(なゐ)の 禍(まが)うけし島
神津島の行幸記念碑に記された御製です。当時山肌が所々露出し、痛々しい光景だったのを思い出します。暮らしぶりも大変だったと推察されます。
三宅島で死者が出なかったのは幸いでした。しかし神津島では診療所前の道を少し下った所が崩落し、車ごと埋まった男性が亡くなられています。
はまゆう丸は、翌2002年もしばらくの間就航を続けました。三宅島復興の立役者であると同時に、送り出す神津島側の大変重いものも背負っていたと感じます。
〔東京都立広尾病院広報委員会発行 広尾病院だより 第179号(令和2年3月発行)収載〕
*当記事は東京都立広尾病院より掲載許可を賜り、転載しております。
*Profile/小山茂(こやましげる):1986年自治医科大学医学部卒業後、